2015.04.17.(Fri)
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4/17〜19の3日間、長崎・佐世保に旅行してきました!題して「榛名霧島竣工一〇〇周年お祝いの旅」!
■ 1日目(4/17)
朝、川崎造船所を満員電車の車窓から眺めつつ神戸空港へ。今回の旅の同伴者であるいぬさんと飛行機で合流して(羽田発のスカイマークは神戸経由便なのである)(搭乗待ちの時からずっと見られてたらしいんだけどわたしはずっといぬさんが機内にいるものと思って気付かなかった)、空路長崎へ!神戸から長崎ってだけでテンション上がるでしょ。
一日目はまず長崎市内へ。お昼ごはんを食べに出ようとしたところでホテルのすぐ傍の対岸が三菱さんでしてね!キャー!残念ながら灰色のおふね(前に来た時はすずつきが艤装中だった)は一隻もいませんでしたが、客船が建造中なのが見えました。あとマリナー・オブ・ザ・シーズも停泊していた!
そして、半月後には世界遺産勧告を受けることになるジャイアント・カンチレバークレーンも。2年前に来た時は「150トンハンマーヘッドクレーン」な表記だったんですけど、世界遺産登録の関係で表記を改めたんでしょうか?「カンチレバー」が覚えられなくていぬさんと「カンバーバッチ?」って何度も言ってました。因みに、霧島の建造にもこのクレーンが使われています。
結局、ホテルのレストランでランチをいただいたんだけど、パスタの量が多くて食べきれず。しかし長崎の物量攻めはまだ始まったばかりだった。
お腹を満たしたところでこの日の目的地である長崎造船所史料館に移動。
まずは史料館門で受付を済ませ、見学者証をもらって入館。で、ツイッターでも散々書いてましたがここで思わぬ事態に遭遇するんですけど。 造船所の黎明期から展示は始まるんですが、ほぼ最初のコーナーを見学していた時に、声をかけてくる人が。「武蔵の展示を見に来られたんですか?」「いいえ霧島です(スパーン!)」新聞記者さんと造船所の広報の人でした。何故か話を聞かれることになって慌てて武蔵コーナー予習しに行きました。だって順番に行ってたら霧島コーナーで足止めくらうに決まってるんだもん。 「武蔵関連の展示を見た感想」と訊かれたので、そのまま展示品の感想を述べてしまったのですが、発見の話とかと絡めて話せばよかったですね。正直、第二船台の写真を見ても「隣に写っている第一船台で霧島が……!」とかにしかならないので、ほんと、武蔵、ごめん。興味がないわけじゃないんだけど、圧倒的に霧島なだけなんだ……。だってみんな武蔵武蔵って注目してるんだから、我々くらい霧島霧島言ってもいいじゃないか。自主的にご実家で竣工百周年をお祝いしてもいいじゃないかっ!! 記者さん「戦争の悲惨さとかは……」 我々「そういうのとは別で」 フォロワーさん達に「相手が悪かった」とか言われてました。 っていうか、後日記事が掲載されたんですけど、ぼくがあんなに頑張って答えたうえに連絡先まで教えたのに紙面に載ってたのはせんせーのことだけだね?よし、そういうことする某紙の取材には二度と答えないよ!
さて、取材も終わって再度見学へ。前回来たのが2年前なのですが、その時より知識が多くなっている所為か、楽しめる要素が格段に増えた気がします。ほんと、知識が金剛型に特化しすぎててあまり他の艦のことを知らぬ。 霧島関連の写真は前回訪問時のログに載せているので、今回は別の艦の記念品を中心に掲載します。 まずは戦艦日向、土佐の記念品。土佐の写真を見てもらえばわかるように、進水式で薬玉が開かなかったそうで、その時点で縁起悪いなって話だったようです。
重巡羽黒、三隈、利根の記念品も。
大型展示もあります。これは九一式魚雷。
戦艦武蔵を建造した立神第二船台ガントリークレーンの鉄骨柱や、武蔵の建造にも使用された大型ハンマー(22kg)!これ、やっぱり誰でも使えるわけではなくて、工員の中でも力のある人が担当していたよう。ちょっと持たせてもらったけど、すごい重かったです。
護衛艦コーナーもありますよ!写真は「はるな」のFRAM完工記念の品。他にもパネルとか、進水記念絵葉書とか、あと「はるかぜ」の舵輪とか。
あと、この日は三菱関係者(関連会社?)の見学日だったらしく、史料館の方が説明についてらしたので(普段一般の見学者は勝手に見て回るだけ)、これ幸いとばかりに近くでお話を聞いてました。引率は複数いらしたんだけど、中に霧島のこと詳しく話してくださる方がいてよかったー!速力のこととか。あと、霧島は長崎造船所の造船番号だと225番船なんだけど、0や5の付く船は大きい船とか思い入れのある船とか、そういうのに与えられる番号なんだって。いや、400番船(青葉)、600番船(利根)、800番船(武蔵)、900番船(橿原丸)なんかの100番ごとの方がレアなんだろうけど。まあ一気に数字は飛ばせないからな。
最後、帰る前に、どうしても気になっていたことを史料館の方に質問しました。それは、史料館の展示パネルで書かれている霧島の起工日が「明治44(1911)年7月14日」となっているのは何故かということ(史料館開設記念品の霧島模型の説明書でも同様だった)。回答としては、「製品一覧」の冊子にも掲載されている7/14が三菱として公式の「起工日」、起工式をした日、ということでした。更に、図面を引いたり部品を造ったりはそれより先に始まっている、とのこと。 一方で、通常言われている(当時の海軍関係史料にも書かれている)「明治45(1912)年3月17日起工」(つまり榛名起工の1日後)がどういう日付なのかとても気になる。 推測では、榛名と同様、起工式の日と実際の起工が異なるのかな、というところ。川崎造船所建造の榛名は、起工式は明治45年3月16日に行ったものの、第四船台のガントリー・クレーンの設置ができておらず、本格的な建造に着手したのはクレーンが完成する大正元(1912)年11月23日を待ってからという話があります。 ただ、長崎造船所の社史によると、第一船台のガントリー・クレーンは明治44年9月着手、大正元年12月31日完成、とのこと。霧島建造と同時進行だったのは間違いないんだけど、海軍艦艇写真集などにも載っている起工式の写真の背景にはガントリークレーンの基部らしき鉄骨が写っているので、着手前の7月撮影とは考えにくいんだよな〜。7/14が起工式をした日、というのとは相反してしまうのだけど。榛名とは逆パターンで、建造に着手をしたのが7/14、起工式をしたのが3/17というのはありえるかしら?それとも起工式二回してるのかしら? 7/14の方だと比叡の起工(M44.11.4)より先になるし金剛の起工(M44.1.17)から半年しか経ってない。しかし、海軍との契約自体は明治44年4月なので、7月に建造に着手していてもおかしくはないかとも思う。謎は深まるばかりです。
あと、いぬさんが霧島の内装の話を質問してました。多数の客船建造実績のある長崎造船所建造の武蔵の方が大和より内装が豪華だった、って話がありますけど、霧島の頃もそうだったのかな、ということ。霧島以前にも長船さんは客船を造っていたので、作りが丁寧っていう可能性もあるかもしれないそうです。
なお、霧島の図面なども保管されているそうですが、一般には公開されないとのこと。研究者になるしかない(真顔)
その後、当初の予定ではグラバー園にも寄る予定だったのですが、時間切れで取りやめに。世界遺産勧告受けた関係で、次に行く時には今より混んでそうだなー!旧グラバー住宅は、入館に制限がかかるかもしれないそうですね。 途中で造船所の対岸に渡れるかな、と思ってたんですけどできなくて、長崎駅まで歩く羽目になりました。万歩計付けてたらすごいことになっていたかも。 晩ごはんは2年前に来た時と同じ店に行きました。実はお店の名前も地名も覚えてなくって!「変わった交番があった」という記憶だけでググって探し当てました。便利な時代だ。思案橋電停近くの「でめきん」さん。おいしいよ! | | |